ガブリエル・シャネルの誕生

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シャネルの創立者、ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)は1883年、フランス南西部ソーミュールに生まれます。父は行商人。母親が他界し、家族は方々に散り、シャネルは孤児院や修道院で育ちました。シャネルの打ち出すファッションは、モノトーンな色が中心ですが、それは修道院で黒などのべーシックな服を着用していたからと言われています。ちなみに修道院の規律正しい生活の中で、シャネルはお針子としての技術を身につけていきます。1905年、踊り子(歌手)を目指しキャバレーで歌う仕事に就くのですが、ここで美しさも兼ね備えたシャネルは、店の人気者となり、ミドルネーム、ココと呼ばれて親しまれました。これがココ・シャネル(CC)の由来で、有名なモノグラムに繋がっています。

帽子屋をオープン

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ココ・シャネルは帽子屋をオープンするのですが、その6年後にはブティックをオープンさせます。そしてさらにその2年後の1919年、クチュリエとしてオートクチュールのコレクションを発表しました。シックで着心地の良さを追求し、シンプル&エレガンスを追求している、そのシンプルさは、彼女の考える女性の解放であり、女性のスタイルだったのです。機能的・実用的なものを生み出すことにかけては天才的な発想の持っていたココは、女性をコルセットから解放し、スカート丈を短くし、女性の動きが自由になる衣服を次々に生み出しました。

この時代、布をたっぷり使用した衣服に身を包む女性はいなくなり、誰もがココ・シャネルがデザインしたカジュルな衣服を着るようになります。
こうしたことから、ココ・シャネルは「女性をコルセットから解放した人物」として語り継がれていくのです。ですが、コルセットを外すスタイルは、ポール ポワレ、ランバンなどがすでに始めており、シャネルが先陣をきったわけではありません。ただし機能的な側面を考えると、シャネルやジャン パトゥなどの功績は大きく、そのファッション哲学は女性の社会進出の先駆けとなりました。

シャネルの好んだ色

そしてその後、ココ・シャネルは「本当の大地の色」としてベージュの色を好みます。20年代にはジャージのスーツに織り込まれ「ベージュの女王」とも呼ばれました。肌の色とベージュをつなげて脚を長くみせ、つま先は傷や汚れを目立たせないよう足元を締める黒で覆ったバイカラーシューズなども発表していきます。

オードゥ・パルファムNO.5が登場

1921年には、オードゥ・パルファムNO.5が登場しました。この当時交際していたロシア人貴族のディミトリ大公から、一人のフランス人を紹介されるのがきっかけとなります。 エルネスト・ボーという調香師なのですが、エルネストはロシア出身のフランス人で、父親はロシア皇帝に仕え、自らも皇室お抱えの調香師をしていました。 ココ・シャネルは、ディミトリの後押しもあり、エルネストと組んで香水を作ることにしました。

エルネストが80種類以上の香りをブレンドした試作品を幾つも作り、ココがその中からたった1種類を選ぶのです。 数ある試作品の中で、サンプルのNo.1~5、No.20~24が残り、最終的にココが選んだのは、5番目の試作品でした。名前の由来は、番号が付けられた実験ボトルが並ぶ研究室で、シャネルが5番目のサンプルを取り上げ「これにするわ」と言ったためです。こうして世界の香水ベストセラーとなる「NO.5」が生まれました。

リトルブラックドレスの発表

1926年には、「リトル ブラック ドレス」を発表します。それまで「黒」とは喪に服す色で、ファッションの色と認識されていませんでした。しかし彼女は、黒という色を使った、ウェストラインの緩いミニドレスを発表したのです。このファッションは、過去にない全く新しいもので、当時の女性たちのニーズにぴったり合うものでした。 アメリカのファッション雑誌「ヴォーグ」で絶賛され、あっという間に世界中の女性の定番アイテムになったのです。シンプルを追い求めたスタイルで、ファッション界に革命をもたらしました。

デザイナーとしての復活

ココ・シャネル不在のフランス・ファッション業界で1947年に革命的なことが起こります。クリスチャン・ディオールが「ニュールック」を発表し、一大旋風を巻き起こしたのです。ディオールの提案したスタイルは、時代を逆行するかのようなウェストをコルセットで締めた曲線的なラインです。 ウェストを絞ることで全体にS字型を描き、女性的なシルエットが見事に復活しました。 しかし、これはココの築いてきた女性像を見事に打ち砕くものです。 ココは「ディオールはまた女性をコルセットで締めつけた」と憤慨し、激しい闘争心を燃やします。ファッションの世界から完全に引退して15年経ったココは、1954年にコレクションを発表し、デザイナーとして復活することとなります。

シャネル・スーツが大流行

1956年、ココはスコットランド産のツイードをスーツに仕立てた「シャネル・スーツ」を大流行させ、その後世界中にコピーされるようになりました。ココはディオールとは真逆のスタイルで時代の最先端を行くデザイナーに躍進し、再び栄光の頂点に辿りついたのです。紳士のものと思われていたツイード生地を女性の服に使うという斬新なアイデアが世間を釘付けにしました。コルセットは使わず、それでいて緩やかな曲線を描くシルエットはココの思い描く「自由な女性」を体現したものとなりました。

コスチュームジュエリーをデザイン

1960年代にココ・シャネルは、ビジュー・ファンタジーという名前で、コスチュームジュエリーをデザインしはじめます。ココ・シャネルのジュエリーは、本物の宝石を使わない、あるいは部分的にしか使わない斬新なもので、当時大変センセーショナルでした。例えばダイヤモンドを中心とする本物の宝石にフェイクのガラスや模造真珠をミックスしたりすることは、当時のフランスの伝統的なジュエリー製作において、反逆的でさえありました。またスタイルに関しても、昔のゴールドジュエリーの製作に使われたフィリグリーの技術をゴールドメタルに応用したり、初期の頃にはビザンチンスタイルを多分に取り入れたり。良いと思ったものは、素材の本物偽物を問わず、そして時代にもこだわらず取り入れたのが、ココ・シャネルです。

最後に…

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いかがでしたか?ココ・シャネルという女性の生き様は決して幸福なものではなかったのですが、その素晴らしき才能は73才を超えても衰えることはなかったのです。今までにない新しい発想から、斬新かつ自由なファッションスタイルが生まれてきたのですね。