時計の聖地ジュネーブがまた世紀の天才を生み出した

スイス生まれのフランク・ミュラーは幼い頃から古い機械式時計や骨とう品に興味を持っていました。彼がジュネーブ時計学校に進んだのは必然だったと言えます。彼は本来3年間かけて履修する単位をなんと1年で習得し、周りを驚かせました。当時はロレックスが時計1本分のパーツを与え自分で組み立てることを卒業検定の一つとしていました。

フランク・ミュラーはそのパーツに更にモジュールを追加し、永久カレンダーにしたと言われています。(永久カレンダーとは絶対にズレないカレンダー機能で、うるう年でもキッチリ調整されます。超高級時計にしか搭載されない超複雑機構の一つ)その後独立時計師として世界的に活躍するアントワーヌ・プレジウソも同期で、共に首席で時計学校を卒業しました。

独立時計師として活動していたフランク・ミュラー

時計学校を卒業後は独立時計師の集いである“アカデミー”に所属し、博物館から依頼される超高級時計の修復を行っていました。並行して自身の名を冠したブランドとして創業したのが“フランク・ミュラー”でした。彼は独自の時計製作を行い1980年以降はトゥールビヨン(重力による姿勢差からの狂いを時計自身が調整する機能。超複雑機構の一つ)や永久カレンダーなどの複雑機構を載せた時計を製作し、世界を驚かせました。

その姿はかつて時計の技術を2世紀早めた男と評されるブレゲに重なったのか、“ブレゲの再来”とまで言われるほどでした。今でこそ独立時計師がブランドを興すことはさほど珍しくありませんが、フランク・ミュラーはその先駆け的存在だったといえます。

そもそも、独立時計師とは?

独立時計師とはブランドに所属せずに活動する時計師のことです。ビッグブランドで情熱も技術も制限される中で独立を決意する時計師、時計学校を卒業後すぐに独立をする時計師などさまざまですが、その思いはいずれも時計への果てしない情熱からくるものです。

大抵の場合はブランドに所属している方が給料も安定していて、その多くは高収入になるでしょう。役職に就けば名誉もありますし、他ブランドへの転職も比較的容易になるというメリットもあります。しかしそれでもなお彼らは真摯に情熱を傾けているのです。自らの名を冠した作品には妥協はありえません。

彼らの作品には独自性というよりもクセと表現するような唯一無二の部分を感じることができます。それは独立時計師たちが時計に傾ける情熱は時計メーカーに所属する時計師を凌駕していると感じさせるような何かなのだと思います。彼らの作品を見ることができる機会があれば、ぜひ手にとって見てみてください。

量産化からグループ化~世界中に知られるビッグブランドへ

フランク・ミュラーが世界的な成功を収めるのにかかせなかった人がいます。それはヴァルタン・シルマケス、後に共にフランク・ミュラーブランドを立ち上げることになる宝石商です。彼は当時は一介の時計師でしかなかったフランク・ミュラーの技術と才能に魅かれ、投資を惜しまなかったそうです。

特にトノウケースと呼ばれる湾曲したケース、風防はフランク・ミュラーらしさでしたが、量産できるメーカーはスイスにはありませんでした。2人は優れたケースメーカーで技術を習得し、彼らのブランドへ活かしました。フランク・ミュラーが様々な複雑な形の新作を発表できるのにはそういった努力があったからなのです。

天才時計師フランク・ミュラーとそれを支えるセンスと知識のヴァルタン、2人で起てたフランク・ミュラーブランドには名声と同時に優秀な人材も集まってくるようになりました。ピエール・クンツもその一人で、フランク・ミュラーの技術に魅せられた一人でした。彼もまたフランク・ミュラーを魅了し独立することができたのです。

バックス&ストラウスやマーティン・ブラウン、バルトレーもフランク・ミュラーブランド(今はフランク・ミュラーウォッチランド)の美意識や技術に賛同し参入しました。そうしてまたひとつ、またひとつとブランドをグループ化することによって、世界で4番目に大きい時計のグループになっていったのです。

最後に

毎年行われるWPHH(フランク・ミュラー・ウォッチランドグループの新作発表会)が2017年も開催されました。彼らは今も精力的に新作を発表し、世界を驚かせています。フランク・ミュラー氏が時計を創ることをやめない限り、あるいはそのDNAをもった後継者が現れればもっとその先も私たちを魅了する時計たちを見せてくれるでしょう。