『ロマネ』という名前の由来

ロマネ・コンティの歴史はローマ時代まで遡り、2000年以上の歴史を持ちます。かつてこの地を支配していたローマ人が統治とブドウ栽培への感謝からこの村の極上の畑に『ロマネ』という名を送りました。10世紀初頭以来、サン・ヴィヴァン修道院が所有し、18世紀初頭にはルイ14世が持病の治療薬として毎日スプーン数杯のロマネ・コンティを処方していたというエピソードも残されています。

ポンパドール夫人とコンティ公との間で争奪戦

その後、これらの畑は競売にかけられることになり、所有権をめぐってルイ15世の寵姫ポンパドール夫人と、軍事顧問的な役割を担っていたコンティ公との間で争奪戦が行われました。

そして1760年、正式にコンティ公が所有者と認められたのです。争いに敗れたポンパドール夫人の怒りは激しく、この事件以降、ベルサイユ宮殿から全てのブルゴーニュワインを閉め出したと伝えられているほどだったそうです。

ボルドーのメドック格付けに1級を獲得

この後、ポンパドゥール夫人はボルドーのシャトー・ラフィットに注目し、ルイ15世と共にベルサイユ宮廷での晩餐会には必ずシャトー・ラフィットが供する様になりました。(この時からブルゴーニュとボルドーのライバル関係が生まれた様です。)

この出来事によってシャトー・ラフィットは名声を高め、100年後のボルドーのメドック格付けに1級を獲得することに結びつきます。

ブドウ畑はをロマネ・コンティと命名

コンティ公爵がこの畑を完全に所有し、ブドウ畑は『ロマネ・コンティ』となりました。すべて自家用に切り替え、コンティ公宮殿では多くの芸術家たちに振舞われました。1789年のフランス革命により畑が没収されますが、ロマネ・コンティという名前だけは残りました。(正式名称は1794年)

1869年、現当主のオベール・ド・ヴィレーヌ氏の家系がロマネ・コンティの所有権を得て、その後畑を買い足していきました。1942年には会社組織とし、ドメーヌはヴィレーヌ家とルロワ家によって運営されていましたが、1991年当時のルロワ家当主、マダム・ビーズ・ルロワの起こした問題によってマダムは解任されました。

現在に至るまで…

その後を継いだのはマダムの姉、ポリーヌ・ロックの長男だったのですが、直後に自動車事故で命を落とし、次男のアンリ・フレデリック・ロックが共同経営の一翼を担うことになりました。 (アンリはドメーヌ・プリューレ・ロックの当主でもあります)

現在はオベール・ド・ヴィレーヌ氏とアンリ・フレデリック・ロック氏が共同経営者となり、ドメーヌの運営を行っています。